我ら、ZENTENSIVIST
禅とは、”動じることのない、心が平静な状態を保っていること”を指す。
英語では、Negative capabilityに近いかも。
集中治療医がZENを身に着けた、ZENTENSIVISTになるには?を西洋人が解説する
【ZENTENSIVISTになるために】
介入主義をやめろ:自分たちが提供するものの欠点を自覚し、上向きが明らかな場合にのみ注意深く介入する、という「Less is more」アプローチとせよ。
異常を需要せよ:"正常 "を取り戻すための介入主義的アプローチが必ずしも正しいわけではない。反応としての異常が保護的に働くこともある(例えば乳酸とか)
実現的な介入をせよ:AならBをする、という画一的対応ではなく現実的に実現可能なことを行う
心を落ち着かせる存在たれ:平静な心は周囲に伝播する
リスクへ寛容たれ:攻める必要はなく、簡素を旨とし、受動的でよい。
より軽く、迅速な選択肢をとれ:例えばCVよりも抹消ルートで対応する、など。
患者の苦痛を回避せよ:ICUレベルのケアでは死亡または重大な機能障害が生じる可能性が高い症例では、「早期目標指向型緩和」を実践て苦痛の回避を行う
本質主義であれ:結果に対応するばかりではなく何が問題なのかを考える。
【コメント】
・鈴木大拙の「禅と日本文化」でも”全ての実存をあるがまま直視して、その全てに愛が浸透することが禅だ”、的なことを書いてあった(うろ覚え)が、こうなるともはや言語の世界ではない。アレとかソレとかで分かれ、の世界。”動じることのない、心が平静な状態を保っていること”も強制的な言語化による切り口の一面に過ぎず、禅といえば、アレだよアレ、というのが本当の世界なはず。
・しかし何かとっかかりはほしい。集中治療医のZENの取っ掛かりはコントロールされた恐怖だろう。元ネタはその昔、ISTENSIVIST誌「気道」の巻頭言に、”コントロールされた恐怖”という内容が載っていたと思う。これが一番近い気がする。なぜ近いのか?と言われても、言葉では説明できない。ソレだから。兎にも角にも、臨床現場では恐怖をコントロールすることこそ、禅道の開始地点なのだ。
・そのうち、INTENSIVISTに”禅と哲学”号が出たら、私のせいです。
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